私の経験と考え方

何世紀にもわたって歴史を刻んできた宗教には、教祖があり教典がある。企業や学校に代表される組織にも創業者や創立者の思想が原点となる。
本書の著者である藤原銀次郎は、1869年生まれ。慶應義塾を卒業し、新聞社、三井銀行三井物産を経て、当時業績が悪化していた王子製紙に転じ、会社再建をはかった。のちに商工大臣、国務大臣を歴任し、1939年に藤原工業大学(現・慶應義塾大学理工学部)を創立した。

○人生という旅は、長くてかつ嶮しい、この長い旅を愉快に最も気長に、嶮しい道を耐え忍んでいってこそ、本当の人生の味があるのだと思います。道に堀があるからといって、渡るのを嫌って、そこに止まってしまったのでは、その人はいつまでたっても進歩することは難しい。
○世の中ではときどき取るに足らないことで会社とか重役を恨んでいる者があるが、それらの人々はいずれも、自己を中心とした社会を描き出そうとしているのでありまして、決してほめることではない。はじめは癪にさわったことでも、それが予期しないことから利益になり、幸福になってくるものであります。
○想うに、人間には、その人の人格によって、その人の風格というものがある。家にはまた、その家の家風というものがある。それと同様に、会社にも、商店にも、それぞれの風があることは当然で、…それぞれの風に従って、これを健全なるものにする必要がある。
○世の中のことは、機械を通してみると、じつに面白い。そこには、機械の哲学ともいうべきものがあって、教訓を受けることが多い。図面通りにやりさえすれば、真鍮と真鍮、鉄と鉄、これらを合わせるとやすやすと機械ができる、また、その組立が成ると思っている。ところが、それだけでは、十中八九は失敗に終わる。一定の規則に従わなければならぬが、さらに大切なことは、いかなる細かなところにもあくまで粘り強く、心身を打ちこんでやるということが必要である。
○私は子供を持たない。子供のない者は養子をして家を相続させるのが、日本では普通の習慣である。けれども私は養子をする心持になれない。子供を貰って育てるよりも、むしろ大学を自分の養子にしようと考えたのである。健康であるうちに、是非かねての理想である工業大学の設立ということを実現したいと考えたのであった。
北里柴三郎先生が慶應に医学部を創立されたときに、先生は、そのときすでに大家として声明を馳せているいるような人はもう進歩は止まっているが、まだ若くて、これから声明を馳せるような人材は、まだ誰にも知られないでみな下積みになっている。そういう無名の大家をもって慶應の医科を組織するのだ、ということを言っておられた。私もその故知を学んで「無名の大家」を集めたいと思っていた。
○専門の技術に関しては、多くの場合、大学の研究室よりも、専門の工場にいる技術家の方が、より先端をいっているようである。つねに世界の情勢に目を通し、外国の新しい雑誌を読み、研究論文を読み、他の研究よりも一歩でも上に一歩でも先にと努力精進をつづけている。
○このような理想をもって工業大学を創立する以上、私はこの理想を生かすべく、自分の魂を打ちこんでかからなければならない。それには他人にまかせたのでは駄目である。そこで小泉塾長ともいろいろお話して、小泉塾長には塾長をやっていただき、私は財団法人の理事として経営のほうをやっていく。そして私が亡くなったら、その後を慶應に寄付してやっていただこうということになったのである。
比叡山高野山のような、人間の足跡のわからぬ山奥へ入るのも哲理を考える場合にはよいが、本当の俗社会を善導し、衆生を済度していこうというのには、真宗本願寺を街頭へ進出させ、日蓮上人が辻説法をして民衆と接触したように、大学も街頭に進出しなければならない。
○東京高等工業(現在の東京工業大学の前身)が、浅草蔵前にあったときは一つの特色を持っていたが、大岡山に引っ込んでからは学問の府のようになった。東京高等商業(現在の一橋大学の前身)が、神田の一橋から国立へ移ってから、高商の学風がだいぶ変わり、いささか学究的学生を養成している趣がある。当時の一橋高等商業のような気持の工業学校、これが私の理想とする工業学校である。



創業精神を活かし、つねに工夫を加えて行き長年の歴史を刻んでいくのが弟子たちの役割である。それができた時、宗教も企業も学校も存続をしていく。
(画像)藤原銀次郎、藤原工業大学創立時の日吉校舎(Web版『写真で辿る理工学部の歴史』より)http://www.scitech.lib.keio.ac.jp/tenji/gallery/scitech/index.html