バーバリーのマフラー

平成30年も師走を迎えて、日々寒さを感じる季節になった。
そろそろマフラーを巻く頃であろうか。
バーバリーのチェック柄のマフラーを今でも使っている。
1990年、今から28年前に初めてロンドンを訪れた時に、このカシミアのマフラーとコットン100%のセーターを買った。セーターも今でも普段着で着ている。
ロンドンでいくらで購入したかは記憶にない。しかし、30年近くたっても着用できているので結果として良い買い物をしたのではないかと思う。
評論家の草柳大蔵さんが、私がロンドンでバーバリーを買った同じ年の1990年に『なぜ、一流品なのか』大和書房という本を出している。
草柳さんは言う。
“一流品とは何か、と問われれば「よい仕事がしてあること」と答えればそれで充分であろう。「よい仕事」とは、
第一に、材料が吟味され、しかも生かされていることだ。
第二に、仕事の仕組みが堅実であることだ。
第三に、使い勝手が良いことである。“
イギリスでも日本でも、この一流の原則を、さまざまな分野で継続して受け継いでいきたいものだと、バーバリーの肌触りのよいマフラーを取り出して思った。

フェイクニュースを見抜く

米国トランプ大統領登場のあたりからフェイクニュースという言葉が世界的に広がった。
マスコミやネットという媒体を通じて、おもに政治にかかわるニュースの真偽がとわれる時代になった。
意図的に人心を惑わす情報を提供する場合もあれば、無意識のうちに偏った情報を提供してしまうこともある。情報提供側の対応と同時に、情報の受け手の側も、いわゆる情報リテラシーを高めなければならない。
情報リテラシーを基礎から高めていく一つの方法として「社会心理学」を学ぶことが有効であろう。社会心理学の認知論の中に「確証バイアス(confirmation bias)」という概念がある。自分が主張したい考えを証拠ずけるために、その考えにあった情報だけに注目したり、その証拠を強調するということである。これはものごとを客観的にとらえるには、陥りやすい誤りである。意図的に「確証バイアス」を活用することもあれば、そのバイアスに自ら気づかないということもありうる。
たとえば、購入した商品の評判をネットで調べようとするとき、自分が購入した商品に対する好評価の情報を選択的にみてしまうということなど、誰もが経験していることである。購入商品に対する悪い評価を避けてしまうという心理行動である。
マーケティング・リサーチは心理学の応用である。そしていわゆる世論調査も心理学をベースにしている。設問の立て方や、調査対象の設定のしかたによって異なる結果が出ることはよく知られている。
フェイクニュース問題は、政治分野だけでなく国際関係、軍事、企業経営分野でも重要となってきている。DIAMONDハーバードビジネスレビューの最新号(2019年1月号)もフェイクニュースを特集している。
フェイクニュースに騙されないために社会心理学の基本を知っておくことは有効と思われる。このための格好のテキストとして『社会心理学』池田謙一他、有斐閣、2010年をあげておく。
www.amazon.co.jp/dp/4641053758/

社会心理学 (New Liberal Arts Selection)

社会心理学 (New Liberal Arts Selection)

グローバル化と国際化

先日、最近注目しているブロガーとして、このFBでもとりあげた藤原かずえさん。11月27日のブログを面白く読んだ。
藤原さんの文章は独特である。いくつかの言葉を日本語と英語で並べ、その定義をすると同時に、さまざまな社会現象やメディアでの言説をキーワードで批評していく。
https://ameblo.jp/kazue-fgeewara/entry-12421573665.html
今回のブログ・エントリー「グローバル化を多様性と同一視する深刻な誤解」では次の一節から始まる。

グローバル化 globalization】とは【地球 globe】を一体化することを意味し、国境の存在を無視するものです。国境の存在を前提とする【国際化 internationalization】とは異なる概念であり、国際化の主体が「国民」であるのに対して、グローバル化の主体は「人類」そのものであると言えます。

われわれ何気なく使っているグローバル化と国際化という概念。その違いを明確にしたうえで、最近話題の入管法改正問題を解説していく。
藤原さんは、日本人の選択肢は2つあると示す。
ひとつは、日本という島国で、現在と同じようなレベルで内向を保つことで独自性を保ち、日本人の個性を長時間にわたって維持するという方向。もうひとつは、現在より外向を重視して日本人の個性を捨てて他国と次第に同質化していくか、である。
いずれにせよ、日本人が真剣に考えなければならない二者択一である。
そして、すくなくとも【多様性diversity】という聞こえのいい言葉を乱用する人たちに気を付けよと警鐘をならす。外国人を多数受け入れた場合、多様性ではなく【画一性uniformity】に向かう可能性を図示している。
議論を整理し、感情的にならず、ロジカルに論じていくことの重要性をあらためて藤原さんのブログは教えてくれる。
この外国人労働者受け入れに関しては、まだまださまざまな論点があり、早急に結論を出すことではない。
日本人は、とかく大勢に迎合し、声の大きな人になびいてしまう。声の大きな人の典型がマスメディアであるが、最近は、インターネットの普及浸透により、マスメディアにだまされない人が増えてきているが、まだまだのところもある。
たとえば、外国人技能実習生について、とりあげられることが多いが、ニュースなどで報じられるのは、実習生の失踪の問題や地域住民との摩擦、不当な扱いなどデメリットばかりでメリットについて報じられるケースはまれである。
よく言われる意見に、外国人労働者が入ってくると日本の良き習慣や伝統が破壊されるのではないか、というのがある。
私は数年前、中国大連にある外国人技能実習生を日本に派遣するための教育機関を訪ねて、教室で生徒たちと接したことがある。教育機関では、日本語教育と同時に日本における生活マナーについて勉強する。教室の壁には模造紙で、「ふとんのたたみ方」などが絵で示されている。
はたして、今の10代後半の日本の若者は、正しい布団のたたみ方がわかるだろうか。日本の良き伝統や習慣は、すでに壊れつつあり、外国の技能実習生が受け継ぎ身につけつつある逆転現象が起こっているといったら言い過ぎだろうか。大連で接した学生たちは、眼がきらきら輝いていた。ちょうど映画「三丁目の夕日」で堀北真希が演じた「六ちゃん」のように。

「オレは進歩と調和なんて大嫌いだ」(岡本太郎)

2025年の大阪万博開催が決まった。ある年齢以上の人にとって思い出すのは1970年の大阪万博であり、そのシンボルであった太陽の塔だろう。
芸術は爆発だ!(岡本太郎痛快語録)』岡本敏子編著、小学館文庫、1999年刊は、岡本太郎の秘書・養女として50年間、一挙一動を見守ってきた岡本敏子が編集した岡本太郎伝である。
岡本太郎の「太陽の塔」にかける想いが同書の冒頭で語られている。

1970年のこと。
大阪で万博が開かれた。この万博は国家的な大プロジェクトとして開催され、約6400万人もの入場者を記録した。岡本太郎はテーマ・プロデユーサーを引き受けて、そのメインゲートにどかーん馬鹿みたいに大きい彫刻を打ち立てた。
太陽の塔」である。
……
当時、日本は学生運動がもっともさかんな時期だった。前年の69年には東大の安田講堂で機動隊と全共闘の学生が激突するという事件が起きている時代だ。日本中に「反体制」の嵐が吹き荒れていた。
万博は国をあげての大イベントである。当然、反体制の側にとっては絶好の標的であった。万博に参加する芸術家なんていうのは「体制側の手先」。万博に参加していない芸術家や学生たちは「ハンパク(反博)」の旗を掲げ、いろんなところで万博の反対集会を開いた。
……
当然、岡本太郎のところにも、非難の声や、嫌がらせの電話などが相次いだし、今まで前衛の代表者、革新的な世代のリーダーとして尊敬し、慕い寄ってきた人たちまでも、白い眼を向けるような雰囲気だった。
しかし、太郎は全然動じる様子がなかった。……
「何いってんだい。一番のハンパクは太陽の塔だよ。」
万博のテーマは「人類の進歩と調和」である。会場はモダニズム一辺倒。……未来志向の建物やテクノロジーで埋め尽くされていた。その真ん中に、どーんと馬鹿みたいに巨大な棟を打ち立てたのだ。……その馬鹿みたいな塔がすべての未来志向の建物と拮抗しているのだ。
太郎はこう言っていた。
「オレは進歩と調和なんて大嫌いだ。人類が進歩なんてしているか。」
「調和? お互いに頭を下げあって、相手も六割、こっちも六割、それで馴れ合っている。そんなものは調和じゃない。ポンポンとぶつかり合わなければならない。その結果、成り立つものが調和だ。」
太陽の塔の制作にとりかかる前、万博のシンボルゾーンの大屋根は丹下健三さんがすでに三十メートルという高さで設計していた。そこへ、岡本太郎が乗り込んできて、「太陽の塔の高さは七十メートルだ。ぐんと、ぶつかるんだ。」と、その大屋根に穴を開けろと言い出した。
当然、建築家たちは頭にきて、かんかんになって怒りだす。……
ところが、岡本太郎と喧々囂々とやりあっているうちに、建築家たちは説得力と情熱に圧倒されて、みんなだんだんと嬉しそうな顔になってくる。
結局、大屋根に穴を開けて、太陽の塔が突き抜けるということに同意してしまったのである。
これが岡本太郎の「調和」のやりかたなのだ。

2025年の大阪万博。テーマは「いのち輝く社会の未来デザイン」だ。
そのテーマを突き抜けるような芸術家が登場するだろうか。
現れなければ、岡本太郎が天国から
「オレが言ったとおり、人類に進歩などない、だろう。わかったか。」
と言われてしまうだろう。
(引用)
www.amazon.co.jp/dp/4094036717/

現場力と想像力

2019年(平成27年)大晦日。いつも年の変わりにギリギリに書いていた年賀状はすでに昨日投函し、大掃除ならぬ中掃除も終わり、ほっと一息の大晦日。テレビのNHK・BSでは、黒澤明特集を放映しており、「七人の侍」を観た。何度見ても新しい発見がある名作である。
いくつかのセリフをノートにメモした。
「おぬしの人柄に惚れて、ついていく」
「カネにも出世にもならん「いくさ」だ。今度こそ死ぬかもしれんぞ」
「自分をたたき上げる、それに凝り固まった男だ」
「敵が怖い? しかしな、向こうだってこっちが怖い」
「戦うとき、旗が必要だ」
「もう、大丈夫だというときが一番危ない。みんなに持ち場へ戻れと言っておけ」
本業のかたわらで、二つの大学で非常勤講師をしている。ある大学では「経営戦略論」を教えている。先日の今年最後の講義では「アレキサンダー大王」をとりあげた。経営戦略は、もとをたどれば軍事戦略がベースになっている。経営戦略も軍事戦略も数多くのケーススタディから理論化がなされている。軍事戦略の基本をたどると、東洋では「孫子」、西洋では「アレキサンダー大王」に行きつく。
数多くのヒット作を生み出し、日本のトップ層にもファンの多い歴史作家の塩野七生さんが、著作の最後に選んだのがアレキサンダー大王であった。最新作「ギリシア人の物語?」が、つい最近発刊されている。
日本経済新聞の12月26日の「時論:Opinion」で、塩野さんへのインタビュー記事が一面を使ってとりあげられている。
塩野さんの次の発言にハッとさせられた。
「総司令官が一介の兵士たちのことを一番分かるのは経験したからではない。彼らには想像力がある。経験しないと分からない人は想像力がない。よく下積みをやらなければ下積みの気持ちは分からないと言う。それはトップクラスにはあてはならない。」
「戦後復興に携わった下河辺淳さんが国土事務次官を辞める時、松下電器産業松下幸之助さんに「ぜひウチに来てくれ」と言われた。でもその時に「工場からやってくれ」と条件を出されたからやめた方がいいと考えたといいます。」
「松下さんも下積みをやらないと下積みのことは分からないという考えがあったのではないか。下河辺さんに言わせれば「それくらいの想像力がなくて国土計画なんてやっちゃいられない」と」
今年は、想像力の欠如が目立った年であったように思う。
揚げ足取りに終始した日本の政治状況。本来、想像力を発揮すべきマスメディアがその力を失い、ある新聞などは言論の力を放棄して、一人の作家を名誉棄損で損害賠償を求めるという異常さ。世界に目を向ければ、米国におけるポリティカル・コレクトネスの行き過ぎによる、息苦しい社会の出現など。
凝り固まった思想や考え方が、「想像」力を発揮する人材の「創造」の芽を摘むことがあってはならない。
七人の侍志村喬が演じた島田勘兵衛のリーダーシップ、元・国土庁次官下河辺淳の想像力、アレキサンダー大王のリーダーシップと想像力に学ぶべきと、大晦日の日に強く思った。

現場力 : 高橋亀吉と大野耐一

高橋亀吉
 東洋経済新報社が発行している『統計月報』で、2000年に「20世紀の日本を代表するエコノミスト」をアンケート調査したとき、高橋亀吉は下村治、石橋湛山ら名だたるエコノミストを押さえて、堂々の1位に輝いた
・1891年 明治24年 山口県徳山村の船大工の長男として出生
・1977年 昭和52年(86歳) 死去

1975年に現役大学生に寄せたメッセージが残っている。

……
「現代経済学を学んでいる学生諸君に何か一言をという編集者のご依頼に答えて、私の長い経験からにじみ出た2、3の点を誌して責めをふさぎたい。
 ◎第一は、経済理論は当時の経済基盤の上に築かれたものである。したがって、その経済基盤が変化すれば、経済理論も変化するものであって、永久不変の原理ではない。
 ◎第二は、経済の純理論の少なからぬものは、世界経済が一体的に運営されていることを大前提にしている。しかし、実際は各国は国民経済的運営をしている。
 ◎第三は、経済の働き方、この面における経済理論は、国によって少なからず違う。」
 経済動向を考察する場合、大切なことは、外に現れた現象は同一であっても、その性格なり、意味なりは必ずしも同一ではない。ところが、最近のコンピュータ的経済観察は、現象が同じならば、これをすべて同一意味のものとみなす、という重大な誤りに陥りがちなのである。
 たとえば、物価騰貴という問題がある。世界恐慌以降の40年間においては(戦時経済を除き)、物価騰貴とは需要が急激に増えたことによってもたらされた現象とみて良かった。それは当然、景気がいいということを、つまりは企業は繁栄して利潤が増加するとされてきた。
 ところが、昭和48年以降の物価騰貴はどうか。従来のように需要が増えたから起こったものではない。原産品の供給が世界的に減った(一時的でなく少なくとも中期的、構造的に)から起こったのである。
 既存の理論をいかに知っていても役に立たない。かえって理論を知っていればいるだけ、昔のパターンにとらわれがちになるから誤診しやすいのである。
 『高橋亀吉・私の実践経済学』東洋経済新報社(1976年刊)の「第1講」より。
……

 大正10年、私は、若年ではじめて海外視察の度に発ち、アメリカからイギリスに行った。当時、経済の分野ではイギリスが最も進んでいると考えられており、イギリスの経済理論が世界を風靡していたころである。
 アメリカで、ある日あるデパートに行ってみた。すると、一つの階全体が台所用品や家具でいっぱいに陳列されていた。ところが、イギリスに渡ってロンドンのデパートに行ってみると、そうした台所用品の売場はなかった。
 私はその違いに強く打たれた。アメリカは人手が少ないから給料が高く、各家庭で雇人を使えない。主婦だけの労働で済むようにきわめて合理化された台所用品が売れる仕組みがあった。
 ところが、イギリスは当時人手は豊富で人件費も安かった。台所をそれほど合理化する必要がなかった。日本でもお手伝いさんを使っている家庭の台所は、合理化が遅れている。イギリスがそれと同じであった。
 事実をみて、これは何だと考え抜き、理論にまで仕上げることが大切なのだ。
 『高橋亀吉・私の実践経済学』東洋経済新報社(1976年刊)の「第2講」より。
……

大野耐一
元・トヨタ副社長大野耐一のは「なぜ」を五回繰り返すことによって対策を発見できる、とした。これは、高橋亀吉の現場思想に通ずるものである。
?なぜ機械は止まったか?
 ⇒オーバーロードがかかってヒューズが切れたから
?なぜオーバーロードがかかったのか?
 ⇒軸受部の潤滑が十分でないから。
?なぜ十分に潤滑しないのか?
 ⇒潤滑ポンプが十分くみ上げていない。
?なぜ十分くみ上げないのか?
 ⇒ポンプの軸が摩耗してガタガタになっている。
?なぜ摩耗したのか?
 ⇒ストレーナー濾過器)がついていないので切粉が入ったから。
ストレーナーを取り付けるという対策。
 (DIAMONDハーバードビジネスレビュー2010年1月号より) 

現場からの発想、その現場を大事にする経営者の意識が、日本経済を支えてきた。これが日本的経営の神髄であり、世界に発信すべきことであるのではないかと考える。