ハイデッガーの用在性

kohnoken2007-11-04

ここ10日間ほど脚の膝の具合が悪く歩くのがつらかった。とくに階段の昇り降りが苦しい。最近は鉄道の駅などえもエスカレーターやエレベーターが整備されつつあり、その恩恵をあらためて実感した。
普段何気なく歩いている道で、小さな坂道の曲がり角がある。この坂は下りが結構苦しい。ふと、手摺ができていることに気がついた。いままで元気なときは全くこの手摺の存在に気がつかなかった。たぶん、この曲がり角のところに碑があるので、その碑を保護する目的もあるのだろう。
この小さな発見をしたのと同時に、ある本の中で次のような記述があることに気がついた。国家情報戦略 (講談社+α新書)

情報を取るとき、目的によって必ず質は変わるものです。たとえば、「この部屋の空調の音が聞こえますか」と尋ねられると音が気になるようになる。でも、そういわれるまでは気がつかなかったはずです。いままでまったく気にならなかったのに、気になって仕方なくなっているはずです。これをハイデッガーは「用在性」といいました。「もの」というのは、すべて用在性であり、純然たる「もの」はない、とハイデッガーはいっています。(『国家情報戦略』佐藤優・高ヨンチョル著、講談社+α新書、2007年)

意識が変わると、今まで見慣れた風景のはずが、全く新しいものとして見えてくる。こうした視点転換ともいうべきことを時々していかないと、マンネリ化に陥ってしまうと思った。脚の痛みが消えつつあるので、またマンネリの日常が過ぎていくのか。
(画像)http://www.geocities.jp/bane2161/takirentarou.htmより