美しい「農」の時代

すっかり秋を感じる今日この頃。秋といえば稲穂だが、残念ながら身近に田んぼがない。美しい「農」の時代―耕す文化の復権あの黄金色に輝く稲穂が見たい。稲は日本人の心の中に刷り込まれた日本のシンボルとも言える。
木村尚三郎さんの『美しい「農」の時代(耕す文化の復権)』ダイヤモンド社1998年を読み返してみた。7年前の著作であるが、今でもハッとさせられる。その着眼の鋭さには脱帽である。

「明日はもっといいことがあるのではないか」という、わが国の高度成長期にあった思いよりも、「ほかの土地にもっといいことがあるのではないか」という思いのほうが強くなる。これが、先行き不透明な時代に共通した特徴である。

時間への関心よりも、空間への関心を強く抱く時期というのは18世紀のヨーロッパ、江戸の中・後期の日本などでも見られたとことだという。空間というのは地理的なものだけではないだろう。ほかの仕事にいいことがありそうだと考えるから転職が今、特に若い人の間に増えているのもこうした背景からかもしれない。

男は時間に生き、明日に生きようとするが、女は空間に生き、今日を最高に生きようとする。進歩と発展の躍動期には男の感覚が働き、男が強いのに対して、先行き不透明の成熟期には女の空間感覚が優先し、女が強い。

たしかに、旅行者ということでは、圧倒的に女性優位の時代になってしまっている。

人が動き、旅人・よそ者が都市や農村に入り込むようになるとき、町や村も美しくなる。美意識が、よそ者側にも町や村の住民側にも発達するからである。交流は、人も、町や村をも美しくする。
よそ者が来ないということは、新しい刺激がないということである。刺激がなければ、その土地は昔を懐かしむ年寄りばかりになり、衰えていく。
正直なところ、よそ者を受け入れるのは、地元の人にとってはけっして気持ちのいいことではないだろう。下手をすると地元のくらしがめちゃくちゃになってしまう。しかしそれでもよそ者を受け入れる度量のあるときに、新しい発展が芽生えてくる。

はてさて、この一節を読んでいて、どこかの国のプロスポーツ組織をイメージしてしまった。この組織は徹底した「よそ者拒絶社会」のような気がする。よそ者を受け入れる度量をどこかのチームが示してくれないだろうか。たとえば、絶頂期にある関西方面のチームとかが……
もちろん、眼力の強い欽ちゃんというよそ者の実態もよくわからないが、付け入るスキを与えてしまったのだとしたら、その原因は、このプロスポーツ全体の機構における理念のなさと、真の意味でのリーダーシップのなさによるところが大きい。
ちなみに、日経ベンチャー10月号に蘇れ!ニッポンの男達と題して、川淵三郎さん(日本サッカー協会キャプテン)が取り上げられている。一チームの生き残りや成功だけに目を向けるのでなく、リーグ全体やアマチュアを含めたそのスポーツ全体を見渡せる人材が出てこないといけないのだが。リーダー不在は悲しい……