背負うということ

*[コラム]背負うということ
最近は電車に乗っていても新聞や雑誌を読んでいる人はほとんどなく、半数以上の人はスマートフォンを見ていることは、日常の風景になっています。
それと同時に、リュックサック(デイ・バック、バックパック)を背負う人が目立って増えてきました。
かくいう私も、最近はリュックサックを多用するようになりました。
手持ちのかばんは片手がふさがってしまいますが、リュックサックであれば両手が使えるので、歩きスマフォなどに適しているので、スマフォの普及とリュックサックの普及は連動しているのかと思います。
子どものころの通学時には、小学生の時は、かばんはランドセルでした。中学生の時は、どんなカバンであったか何故か記憶から消えています。高校生の時は革の手提げのスクールカバンでした。
手持ちのカバン、片方の肩にかけるショルダーバッグ、両肩にかけるリュックサック、それぞれ長所と短所があります。
今はやりのリュックサックにスマフォの姿を眺めると、なぜか薪を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎二宮尊徳)のことを思い浮かべてしまいます。時代は変わっても、荷物を背負いながら情報収集するという人間の行動は、共通しているようにも思います。
「背負う」ということ言葉。物理的に荷物やカバンや薪を背負うということだけでなく、眼に見えないものを背負うというときにも使われます。
過去を背負う、家族を背負う、責任を背負う、会社を背負うなど。
通常は「背負う」というとマイナスのイメージでとらえられると思います。できれば、物理的にも精神的にも、あまり背負うものがないほうがよいともいえますが、なかなか現実にはそうもいきません。
背負うものがあり、それを責任として踏まえたうえで生きていかなければいけないのかな、と思っています。
背負うものがなければ気軽でよいとも言えますが、それはそれで充実感が得られないのでは。人間として深みを感じさせない のではないかと思ったりもします。

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