「放蕩と誠実のせめぎ合い」

コラムニスト・勝谷誠彦さんのお父様のご逝去のこと

地上波のテレビが衰退しつつある。わたくし自身もほとんどテレビを見ることがなくなった。インターネットという情報アクセス手段が普及し、そこで発信されるコンテンツの質が上がってきたことで、インターネット情報優位の時代になっている。人間にとって1日は24時間、これはあらゆる人間にとっての代えがたき条件である。

インターネット上で情報発信している尊敬をする人は誰ですか?
と、問われれば
私は、勝谷誠彦さん(コラムニスト)と、川澄奈穂美さん(女子サッカー選手)のお二人を挙げる。
お二人の共通点は、毎日欠かさず情報を自らの言葉で情報発信されていることである。
毎日ネット上で発信し続けること。1年や2年でも大変なこと。それ以上というのは尊敬に値する。
勝谷さんの有料メルマガは、ここ数年読み続けてきた。毎日朝の9時頃に発信されてくる。ここ10年ほど読んできた。川澄さんのブログは2011年のドイツワールドカップ・なでしこ優勝以来読んできた。お二人とも1年365日、槍が降ろうと雨が降ろうと毎日欠かさず、それも毎日中身の濃い情報を発信してこられている。
今日は勝谷さんのことに触れる。
昨日に勝谷さんのお父様が亡くなられたとのことである。
以下は、有料メルマガの一部である。
一部であるので無断引用、勝谷さんにもお許しいただけるであろう。

●11月1日

3時起床。尼崎市の家。
 父が死んだ。
 平成28年11月1日、午前零時46分。享年88。天寿をまっとうしたと言うべきであろう。弟一家がいるところに私が駆けつけ、お別れを言ったあとに主治医の先生がやってきて、脈をとり、瞳孔を見て「ご臨終です」とのこと。医者の家とは嫌らしいもので「待っててくれたんだよ、先生が」とは弟医師の解説である。なるほどこうして「間に合った」物語は作られるのだ。いかにも日本人らしい優しさである。
 さて、今日から通夜、葬儀などのえらいことが始まる。看取りの期間は想定していたよりも短かったが、こうなって来ると、尼崎市に家を持つという私の構想がいよいよ生きて来るのである。ホテル住まいだと厳しいし、実家には私の部屋はあるが、葬送に加わってキ印兄がいると、弟の嫁さんなどのストレスはたまらないであろう。私としても気になるので、悠々と広い自宅でこうして「さて、忙しくなったものだ」と考えているのがまことによろしい。
 これもまた、父に運があるのか私に運があるのか、これからの1週間、何もスケジュールが入っていないのだ。マネジャーのT-1君はチチキトクになってからずっとハラハラしていたようだが、まさかこの日に逝ってくれるとは、というタイミングである。
 人をおくるのは、賑やかで楽しい方がいい。世界のあちこち歩いてきたがバリ島の葬式などはまさにそうであった。いや、日本国も昔は近かった。私の子どものころなど、通夜酒にわけがわからない連中までが群がっていて、酔うほどに盛り上がっていたものだ。それを看取っていた父も酔っぱらっていたので、賑やかに見送ってやろうと考えている。
 そろそろ危ない、という連絡が入ったのは昨日の昼ごろであったろうか。血圧が急に低下し、尿が出なくなった。マンガみたいだが、それを見守っているのは医師である弟であり、こちらは「軍事を知る」馬鹿だ。連携でたちまち動く。先任特務曹長たるマネジャーのT-1君の手によって魔法のように最終の一本前のANA便がおさえられ、私はそれに飛び乗った。伊丹空港には弟の嫁さんが車で待っていてくれて、たちまち病院に行く。姪の夏海と甥の万太郎も一緒だ。
 父をひとめみて、もうおわっているなとわかったが、頬に顔を寄せて、そこに口づけをした。反応はない。55年間の恩顧に感謝したのである。主治医がいらした。「ありがとうございました」いうと、聴診器をあて、瞳孔を確認して「ご臨終です」と。さきほど触れたように、私のために「儀式」を待っていてくれたのである。実は、医師のこういう「儀式」は大切であって、亡父はいつも口にしていた。往時は自宅で亡くなるのが普通だったので、そこに夜に往診カバンを持った父が出かけていく。そして「ご臨終です」と。以前も書いたが、なぜか坊主が横にいたりするのである。業界は支えあわなくては(笑)。
 今ここで改めて振り返ると「親の死にめにあえた」とは、たとえそれが素晴らしい厚意の連続によって演出されたものにしても、奇跡のように思われる。「チチキトク、スグカヘレ」の電報を握りしめて、どれほどの大日本帝国臣民が夜行列車に揺られていたことか。自分の幸せを思わざるを得ない。
 いやな子どもで、昔から思っていた。「あのおじちゃんや、あのおばちゃんが前にいるな」と。先に寿命を全うするであろうということだ。何だかとうとう、私の前に誰もいなくなった。次は私である(笑)。いよいよ塹壕を出て最前線に立ったという気分だ。まことに心地よい。
 いなくなってみると、実は父が息子に語り遺したことはそんなにはないのだ。後述して歴史を遺すことをオーラルヒストリーと言うが、きちんとそれがなされている家はそうはないのではないか。通夜や葬式を通じてさまざまな人と会うだろうから、そこからこれまで以上の情報が入って来るかも知れない。だが、とりあえずいまのこの興奮のうちで書くべきことは書いておいた方がいいだろう。あとでは面倒くさくなるだろうから。
 いまは大和高田市にある父の実家は奇妙な家だった。移転してすっかり近代化したが、私は込み入った路地の奥にある、しかし広壮な家の前の古墳の石室に入って遊んだ記憶がある。そこで生まれた父は、畝傍中学から陸軍経理学校に入った。陸経こと陸軍経理学校は「ひとつの県からひとり」と言われた超エリート校で、士官学校よりも難しかった。
 それは立派なのだが、愛国青年であれば陸軍士官学校を目指すのが当然であろう。前線に行きたくなかったのだな、と子どもの私は思った。陸経を出ていながら終戦直後になぜか医学部に潜り込むのもまことる怪しい。この歳になって自分を知るほどに、これは父のDNAかと思うのである。「ナナメに生きる」のがどうやらうちの家系なのだ。
 「放蕩と誠実のせめぎ合い」が血の中にあるらしい。手放しにしておくと、舵はどんどん放蕩の方に切られてやがて破滅する。ところがどこかでそれにストップをかけるのである。中尉として退役した父は、医学部の学生であった当時、キャバレーで踊り子をしていた母をみそめる。バレリーナであった彼女のアルバイトだった。フツー、そんなことしないでしょう。「パパはね、白衣の上からベルトの代わりに荒縄を縛ってきていたの」。今では明らかに頭がおかしいと理解している母の回顧である。
 どっちもどっちである。私はずっと母が狂っているというのは理解していたが、その対極に謹厳実直な父がいた。しかしこうして亡くなってみると、くりかえすが、どっちもどっちだ。おかしい。よくぞ亡父は医者という「手に職」をつけてくれたものである。そうでないと相場師か何かになって、私と弟は児童施設に預けられていたかも知れない。
 今日、通夜がある父のことをこうして微苦笑しながら書けるというのは幸せなことである。書くべき物語がある。それを書く、こういうバッタもの書きの息子がいる。どういう弔辞を読むよりも、私は父に捧げるものがあってよかったと感じる。
 ひとの死にはふたつある。肉体的な死。そして人々に忘れられる死。父はおそらく(書いた瞬間に憂鬱になった)相当な資産を遺しただろうが、敢えて言う。パパ。こうやってパパの物語を書く息子を持ったのが、いちばんの資産だよ、と。更に大きいのは、地元の人々の愛されているうちの医院を弟がきちんと継いでいることだ。父は「意外とまっとうな二人の息子」を遺したのだと、わあ、自画自賛
 でも、今日の通夜や明日の葬儀では私は喪主としてそういうことをみなさんに感謝したいと考えている。
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●11月2日

3時起床。
 今日は通夜、明日は葬儀なので、いささかここ数日は本当の私信に近くなることをご容赦いただきたい。まあ、もともと日記と称しているので、本来の姿ではあるのだが。国際的に大きな話が入ってくれば、もちろん、そちらにシフトすることは当然だ。
 たくさんというか膨大というか想像を絶する分量のお悔やみのメールをありがとうございます。覚悟しておくべきであったが、繰り返すが想像を絶していた。ウェブ社会の「量」というものを見過ごしてきた。ちゃんと全部読ませていただいているが、返信はすみません、葬式よりもそっちの方で数日潰れてしまいそうなので。ほとんどがこの日記の読者の方なので、この場で心の底からお礼を申し上げる。私のようなただの日記を売りつけているバッタもんに、こんなにも気を使っていただいて。
 恥を書く。父が死んでも私の感情はそうは動かなかった。そりゃ悲しいけれども、やるべきことがたくさんある。涙の一滴も出ない。涙腺が崩壊したのは「えっ?これは何?」というほどのメールが殺到していることを知り、そのひとつをあけた時であった。悼んで下さっている。どんどん開いていくと、そこにはそれぞれの家族の物語がある。「私の場合はこうでした」と書かれている。
 これは小説だと感じた。小説というのは、自分が生きているささやかな人生にひょっとすると類似するものを提供することで、ひとの心をやすらかにするのである。たくさんのメールのひとつひとつは、とんでもなく私の家とは違うものも多かったが、それでもどこかひきあうのであった。
 ああ、バッタもんでもモノを書いていてよかったと思った。この日記もまた。かかる素晴らしい読み手たちがいていただくことは、私の喜びであり誇りである。何よりも、ひとの悲しみよ寄り添うということを「地域」ではなく「世界」でできるということが、ああ、ウェブというものは凄いのだなあとも感じた。身内ならではの感慨なので、あまり外では書かぬ。素晴らしいので、秘密にしておきたい(笑)。
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インターネット上でつながりのある人は、たとえ面識がなくても家族や友人に準じる関係のようになる。
勝谷さんのお父様が亡くなられたことは、身近なものに感ずる。
本日の尼崎でのご通夜、明日朝のご葬儀には多くの方々が参列されることだろう。
勝谷さんの明日の3日朝に配信される有料メルマガが待ち遠しい。
勝谷さんのご尊父のご冥福、お悔やみ申し上げます。