プロレスとプロレス放送

小学生から中学生のころ、テレビのプロレス放送をよく観た。力道山の記憶はかすかにあり、その後、馬場・猪木全盛の時代であった。白黒テレビで金曜日の夜8時、ディズニーのアニメ番組と日本プロレス日本テレビで隔週で放映されていた。また試合の合間に三菱電機の掃除機がリングを掃除する映像も記憶に残っている。
しかし、ある時から、プロレス中継を観ることがなくなった。きっかけは古館一郎氏のアナウンスである。馬場の日本プロレスから猪木が新日本プロレスを立ち上げ、そこにテレビ朝日が番組を持った。ちなみに、国際プロレスはTBS系列で30分の番組があったと記憶する。
それまで、多くの子供たちがそうであったように、純粋にプロレスの試合の中継を楽しんでいた。試合運びに演出のにおいを感じながらも、試合そのものに没頭できた。それが、テレビ朝日の古館伊知郎氏のアナウンスで状況が一変した。アナウンサーのオーバーな言葉が、プロレスの試合に、さらに刺激を与えたからである。これでもか、これでもかと過激な言葉で、視聴者の興奮を募る。
わたくしの場合は、古館氏のアナンウンスは耳障りであった。もちろんいろいろな視聴者がいたであろう。古館氏のアナンウンスによって、プロレスファンになった人も多いかもしれない。しかし、純粋に、試合運びそのものの演出も含めてのプロレスの面白さを感じていたのに、そこに古館氏は土足で入り込んできたような気がした。かすかな演出の上に、さらに過剰な演出が加えられたことで、何とは言えない違和感を感じたのである。大げさな言い方であるが、神聖なる予定調和のプロレスが、テレビのカラー化とも相まって、原色の派手な毒々しいものになっていたような気がしたのである。
古館伊知郎氏は、産経新聞の「話の肖像画」という欄で、インタビュー記事の連載をしている。24日付の第5回では、次のように語っている。
「僕はプロレス中継で、発想に場外乱闘を持たせることを学びました。自分たちの流儀を持ちつつ、一方でそれに疑問を投げかけていく。自分のやっていることを信用しすぎない。そういう姿勢は、ニュースにもバラエティにも必要だと思うのです。」
自分たちの流儀に疑問を持ち、新しいことを行っていく。たしかにそれは大事だ。しかし、根っこのところを壊してはいけない。根っこは残しつつ、地上の部分に変化をするなら良い。古館氏は、プロレスもニュース報道番組も、根っこのところを壊してしまったのではないか。そこから地上に出た目に見える植物の分の目新しさだけに視聴者が反応することになっていったのではないか。ある意味で、古館氏は本来深い意味でテレビを見ていた視聴者をバカにした態度をとったのではないかと思う。もちろん、ご本人はそんな意識はなかったと思うが。
同じ本日の日経新聞は一面コラム「春秋」で、米国大統領候補のトランプ氏がここまで上り詰めるにあたって、そのノウハウをプロレスから学んだということを取り上げている。トランプ氏は、昔はゆっくりと上品に話すビジネス人であったが、10年ほど前にプロレス興行に乗り出し、小さな小競り合いを演出するなど、白人労働者の心をつかむすべを覚えたという。それが大統領選の支持集会のプロレス的空気につながっているのだという。だれかを攻撃し、憎悪をあおり、熱狂を作り出す演出であるという。
どんなプロスポーツでも、政治の世界でも小さな演出は必要だ。しかし、基本のところがあって、それに若干付与するという演出でバランスが取れているはずである。試合よりもアナウンサーの過激な演出が目立ってしまったり、政治の政策や理念以上に、過激な言動の演出が注目されてしまうような世界は、危険である。
プロレスの原点、政治の原点に立ち返ってほしいものだ。