人間風車・ビルロビンソンと昭和40年代の記憶

ビルロビンソンという懐かしい名前を新聞で見つけた。75歳で亡くなられたとのこと。読売新聞の死亡欄では写真入りで掲載され、日経新聞にも死亡記事が掲げられている。
ビルロビンソンが日本で知られるようになったのは昭和40年代前半である。
当時、東京圏では日本テレビジャイアント馬場アントニオ猪木率いる日本プロレスを中継し、TBSがグレート草津ストロング小林率いる国際プロレスを中継していた。ビルロビンソンは国際プロレスの外国人レスラーとして人気を博していた。
人間風車」。だれが命名したのであろうか。良い名前だ。ダブルアームスープレックス。風車のように弧を描く技は、ロビンソンの得意技であり決め技でもある。芸術的な美しさがあった。
当時の子供たちは、プロレスの技は友達同士で掛け合って遊んでいた。ザ・デストロイヤーの4の字固め、アントニオ猪木コブラツイスト卍固めは子供でもできる身近な技だ。しかし、ビルロビンソンの人間風車や、ルーテーズのバックドロップは、なかなか子供ではできない危険を伴う技である。
プロレスといえばアメリカであったが、ビルロビンソンはイギリス人で、本国で活躍していたレスラーであった。デストロイヤーやボボブラジル、
フリッツフォンエリック、ザ・クラッシャー、ジンキニスキーらがまさにアメリカを感じさせる凶暴さのシンボルであったのに対して、ビルロビンソンは英国風の紳士を思わせる控えめなテクニシャンであった。そんな技術者の雰囲気が日本ではプロレスのイメージを変えたといってよい。
昭和40年代プロレスは第二世代の黄金期であった。その前の第一期は力道山の時代である。力道山東京オリンピックの前年の昭和38年暮れに、東京赤坂のホテルのキャバレー前で暴漢に襲われ、命を絶った。その後、馬場と猪木がプロレスの灯を受け継いだ。
日本人が最も身近に外国人を感じたのは、実はテレビのプロレス中継ではなかったかと思う。もちろん外国映画や外国テレビドラマでアメリカやフランスの俳優たちに触れることはできていたが、スポーツの世界ではプロ野球で外国人選手が活躍していたとはいいながら、ごく少数であったのに対して、プロレスはテレビ放映だけでなく、地方での巡業が行われ身近に外国人レスラーに接することができた。私自身も子供の頃、地元の市営球場に特設リングが設営され、馬場や猪木とともに戦う外国人レスラーを身近に見た記憶がある。
昭和40年代のプロレスを扱った雑誌に「ゴング」「プロレス&ボクシング」があった。新聞では「東京スポーツ」である。今、記憶がよみがえってきた同雑誌の写真入り記事二点。
一つはビルロビンソンが日本国内巡業で四国の大歩危小歩危国鉄で通った際に同氏の小さな子供とともに8ミリカメラを廻していたという記事。もう一つは「鉄の爪」として恐れられていたフリッツフォンエリックが、これも同氏の中学生ぐらいの息子とともに、東京都内の中学校を訪問したという記事である。この記事で大歩危小歩危などの場所と読み方を知った。
悪役レスラーといわれる人たちは、多くの悪役俳優と同じで、私生活では善人が多い。ジャイアント馬場のこめかみを鉄の爪で流血させたエリックも日本の子供たちとの接触を歓んだテキサス魂を持った愛すべきアメリカンであった。
人間風車、ビルロビンソン、なつかしい名前に接することで昭和40年代の記憶が蘇ってきた。