看護学と医学(上巻・下巻)

昨日のブログで医師と患者のことについて触れた。そこでは深く触れなかったが、医師と患者のコミュニケーション、医療の思想と医療技術、データ至上主義、心の交流などのことについて本来であれば、たくさん触れたいことがあるのだが、一遍には無理なので、時々コメントをしていきたい。
10数年前、何のセミナーであったかを思い出せないのであるが、場所が池袋サンシャインのイベント会場であったから、たぶん、医療情報システムの見本市での講演であったと思う。そこでの看護師の方々を教育するコンサルタントの講演の内容が今でも私の頭に残っている。そのコンサルタントの言葉を再現すると、次のようなことであった。

看護師の皆さんは白衣の制服を着ています。むかしからその制服はあこがれの的となるシンボルでした。あの制服を見ただけで患者さんは心が穏やかになり安心をするのです。
しかし、私は不満なことがあります。できれば明日からすぐにでも改善してほしいことがあります。看護師の皆さんの白衣の胸にボールペンなどの筆記用具がさされていることがあることです。ふだん我々は何気なく胸に筆記用具をさす風景を見ています。それに何も違和感を感じないはずです。オフィスや学校では、それで良いのですが、医療機関福祉施設では、ダメです。看護師の皆さんは、いつ患者さんの異変に気づいて、患者さんを抱きかかえなければならいこともあるでしょう。また扱いの難しい医療機器を操作することもあるでしょう。万が一、胸にある筆記用具が患者さんの体にぶつかったり、医療機器の操作に影響をあたえてしまったらどうでしょう。危険この上ないことと思います。
よく工事現場や工場などで職人の方々が、道具類をズボンの側面のポケットにしまえる作業着を着ているのを見かけます。看護師さんもなぜ、そのようにしないのでしょうか。
よく身の回りを見まわしてください。あたりまえと思っていた風景が、じつは危険をはらんでいるということがよくあります。自分の仕事の使命は何かを考え、その基準で見直すことが大事です。

私は医療関係者でもなんでもないのですが、自分自身が医療機関のお世話になったり、高齢の家族を身近に抱えていると、ふと感じることが多々あります。これっておかしいな、と感じるのです。
私の本業である経営コンサルティングの現場で医療健康ビジネスの事業開発や経営にかかわることがあります。その時に医療の原点を考えることが大事だと思っていますが、医師であり医学研究者である瀬江千史さんの「看護学と医学」(1997年刊)は、私のような門外漢の人間にも多くの示唆を与えてくれる著書でした。

看護学と医学〈上巻〉―学問としての看護学の成立

看護学と医学〈上巻〉―学問としての看護学の成立

瀬江さんは、看護学の体系を築かれた薄井坦子さん(発刊当時・宮崎県立看護大学学長)の「看護学原論・講義」一節を引用しています。

看護はもともと、人間が病む人を見つめるところから始まった仕事の一つである。すなわち、人間は、もともと他人の苦しみや痛みを感じとる豊かな感性を育むことができる存在であったために、病人や障害者の苦痛を感じとることができたのである。さらに「なぜあんなに苦しんでいるのか」「どうすれば苦痛を軽減することができるのか」と工夫をこらす知性を育むことのできる存在であったために、人間そのものや人間の生活のあり方を見つめてさまざまな発見をし、それを手がかりとして苦痛の原因・誘因を探り、有効な手当てを発見し、苦痛を予防する手だてを考え、人間が心身ともに健康に生きるために必要な条件をしだいに明らかにしてきたのである。このような人間の歴史の流れのなかで獲得された知識は、さまざまな学問体系にまとめあげられ、かつ多くの職業をも生み出してきた。

この多くの職業の中心に位置するのが医師であり看護師である。この瀬江さんの著書は、それぞれの職業の原点に立ち返り、それぞれの仕事とその背景となる学問体系を整理してくれている。
医療や福祉・介護に携わる人々はもちろんのこと、自らの職業の見直し、隣接する分野の必要性を感じている多くの意欲ある人々にこの本を薦めたい。