花ならば花咲かん

会津藩の歴史は、寛永二十年(1643)保科正之によって立藩されたことにはじまり、明治元年(1868)戊辰戦争に敗れたことによって幕を閉じました。その足掛け二百二十六年間は、大まかにいえばつぎの三つに時代区分できるでしょう。
1)保科正之が幕政を指導しながら、人道主義的な藩政をおこなった時代。
2)名家老田中玄宰(はるなか)が登場し、すべて右肩下がりになってしまっていた状況を憂えて寛政の改革を断行した時代。
3)幕末・維新の苦難の時代

この長編小説は、この2)の時代を描いた物語である。花ならば花咲かん
主人公の田中玄宰は、財政再建、殖産興業、藩風刷新、藩校「日新館」の創設を成し遂げる。
田中玄宰の幼名は田中小三郎。祖父の三郎兵衛は会津藩の元家老。ある日、幼き小三郎とご隠居の三郎兵衛は若松と猪苗代のほぼ中間にあたる強清水の「そば」の店の暖簾をくぐる。

小三郎は、思わず目を瞠っていた。道ゆく人はひとりも見掛けなかったというのに、意外に広い店内は大いににぎわっていて、なかには親子連れの村人もいる。
「こんなに人がいるなんて」
三郎兵衛につい話しかけると、祖父は渋紙色の皺んだ顔に笑みを浮かべて答えた。
「名代のそばがあるからこそ、人もかように集まってくる。じゃからわしは。御領内にもっといろんな名産品を育てられぬものか、といつもいっていたんじゃが、なかなかうまく話がまとまらなくての。汝が数馬に代わって出仕いたすことになったら、なにか考えてみるがよい。」
それを聞いて小三郎は、すっかり感心していた。(へえ、ついこの間まで御家老職についておいでだったお爺さまのお役目には、名産品を考えだすこともふくまれていたんだ)
これまでの小三郎は、武士は文武両道に励みさえすればそれでよい、ものを作るのは職人や百姓たちのすることだ、と信じて疑わなかった。

こうした祖父から受けた薫陶が後の小三郎の藩政改革につながっていく。会津漆器業を中興した。
田中三郎兵衛玄宰の墓は会津・小田山の山頂にある。

小田山は山桜の名所だが、三郎兵衛の生涯も自身も充分に花咲かせた人生だっといってよい。

現代の日本に目を向けると、一向にデフレ脱却も、震災復興も足踏み状態である。著者は田中玄宰がいたらどのような改革をおこなったかと、あとがき結んでいる。
リーダー不在と嘆いている暇はない。