小説後藤新平

先日、青山佾(やすし)元・東京都副知事の講演を聴いた。「災害に学び、災害に備える」というテーマで、三宅島噴火、ニューオーリンズ水害や東日本大震災から何を学ぶかという話であった。被災者の物理的そして精神的な衛生のため風呂に入ってもらうことの効用など、現場での経験談が語られた。
青山さんはペンネームの郷仙太郎で「小説後藤新平」を書かれている。台湾、満州、東京という当時の日本の最も経営が難しい最前線のリーダーとして、数々の業績を残し、最後は関東大震災復興にかけた後藤新平の生涯は、もっともっと多くの人々に知られてよいと思う。小説 後藤新平―行革と都市政策の先駆者 (人物文庫)
1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、関東大震災は発生した。山本権兵衛内閣の組閣が難航しているさなかの地震で、急きょ後藤新平は内務大臣となる。後藤新平は9月6日の閣議に「帝都復興の議」を提案している。復旧ではなく復興によって欧米に負けない都市をつくるという気概あふれた提案であった。地震発生から一週間と経たぬうちに復興提案がなされるというスピードである。
1929年4月、新平は東京駅から岡山へ向かう夜行列車の中で迎えた朝、脳溢血の発作で倒れ、その日のうちに京都の病院で死んだ。
同書の最後の章で、後藤新平の回想が描かれている。

俺は、首相になれなかった。そのことに悔いはない。やりたいことは思う存分、やらせてもらった。東北の没落平民から身を起こして役人になり、投獄されたこともあったが返り咲いた。阿片や反乱で危機に瀕した台湾経営も軌道に乗せた。満鉄の基礎も築いた。伏魔殿と言われた東京市の改革もやった。関東大震災の復興も手掛けた。…革命後のソ連との交渉もやった。植民地経営、都市経営、外交交渉と、俺の仕事は多岐にわたって一見脈略がない。しかし、時代背景を考えてもらえばわかるだろう。この間、欧米列強と日本との関係は食うか食われるかだ。……
俺の例を見てもわかるとおり、この国は、閥も何もない人間にとっても、結構チャンスに溢れた国だ。このやり方を続けていけば日本も一流の国になるだろう。……
もし、もう一度この時代を生きたとしたら、俺はどうするか。
迷わず、再びこの道を選ぶだろう。

今日の東日本大震災のことを振り返ると、なんとも現代の政治指導者の劣化には愕然とする。