かつての満鉄本社本館内の総裁執務室と現代の大連港

かつての満鉄本社は1908年修理完成した。ロシアが建築中の学校の建物を満鉄が改修し、本社建物とした。本館の一部は現在、大連満鉄旧跡陳列館になっていて、総裁執務室だった部屋の様子も見ることができる。満鉄の初代総裁は後藤新平草柳大蔵は「実録満鉄調査部」(朝日文庫)で次のように満鉄と後藤新平を語っている。

「戦後生まれの若い人は「満鉄って、どんな鉄ですか?」と聞くそうだが、鉄でいうならばインゴットになるまえの、さまざまな混雑物の入っているノロ(溶鉱)の状態であったといえるだろう。国家のほうが、天皇家を頂点とする絶対主義体制を保ち、日本人としての評価が天皇からの距離のパトスできめられていたのに対し、「満鉄」の方は抱負や能力や政治力など、生ぐさい人間のやりとりが自由に息づいていたといえる。」
「後藤の、「文装的武備論」は、最初は病院の廊下をひろくして野戦病院の機能を持たせるとか、大連港に海軍の退役将校を配して戦争に備えるとか、アイディア集のような感があったが、満州経営にたずさわるにつれて、「文化社会」建設の原理にかわってゆく。逆の観点からいえば、後藤は「文装的武備論の反対は武備的文弱論になる」という、武力にたよって文化に力を注がない支配は、いざというとき、民衆の協力を得られないので、たちまち崩壊してしまう。その危惧を、彼は「文装的武備」という逆の表現であらわしてみせるのだ。」


日本が大連を取得して最初に手掛けたインフラは港湾開発であった。大連の港湾の全体像は当時と今もあまり変わっていないという。鉄道をそのまま港に直結している。埠頭にある船客待合所の向かい側に満鉄大連埠頭事務所が当時と同じ姿で残っている。7階建ての建物で当時は大連一の高さを誇っていたという。現在は最上階が観光用に開放されていて、ここから埠頭全体が見渡せる。この最上階からみる目の前の埠頭から1946年12月から1947年3月にかけて、20万3765人の日本人の引き揚げが行われた。
(画像:上)満鉄本社本館・総裁執務室
(画像:下)かつて引き揚げ船が舞鶴に向けて出航した大連港のふ頭