二〇三高地と東鶏冠山北保塁

あこがれの二〇三高地。坂を登った先にはやはり雲があった。旅順湾は雲の彼方に見渡せる。この小さな山をめぐって日露双方で多くの命が犠牲になった。100余年前のことを思うと目頭が熱くなる。
この山を下って水師営会見所(すいしえいかいけんしょ)を経て東鶏冠山北保塁(とうけいかんざんほくほるい)へ。最強を誇ったロシア軍の保塁で、攻撃側の日本軍首脳から「ロシアの英雄」とあがめられたコンドラチェンコ少将が戦死した場所でもある「坂の上の雲」では、ロシア軍のステッセル将軍とコンドラチェンコ少将の人物像は、次のように描かれている。

ステッセルがその籠城中、麾下の将兵の人心を得ていたという事実は、どうにも見つけ出しにくい。…兵士というのは、ただ命令されるだけの可憐な集団だが、受け身の立場であるだけに自分を死地に連れてゆく指揮官がどの程度の質のものであるかを見ぬく嗅覚は、ほとんど動物本能のように持っている。…ステッセルの関心が祖国よりも、彼一個の栄達にあることを見ぬいており、そういう見方がほとんど常識のようになっていた。…無能な指揮官が、その無能を隠蔽するために、みずから風紀係になったように軍規風紀のことばかりやかましくいう例は軍隊社会にふんだんに見られるが、ステッセルもそうであった。」
「ただ旅順におけるステッセルが、きわめて良質な処置をとったひとつは、コンドラチェンコ少将を片腕にえらんだことであった。…作戦家といわれるひとびとは、第一線の猛将たりえない場合が多いが、コンドラチェンコは渾身が第一線の砲火のなかで士卒をまとめて死地におもむかしめる軍人としてできあがっており、このためかれはつねに前線にいた。」
「旅順陸軍にあっては、ステッセルのつぎに位置している階級のもちぬしが、陸軍少将であったフォークであった。…この痩せた長身の軍人は、ロシア軍人に共通した病気ともいうべき嫉妬心がつよく、同僚のコンドラチェンコをひどくきらい、コンドラチェンコの悪口となると、師団を指揮するよりはるかに情熱的になった。」

(画像:上)二〇三高地 ここから旅順港ロシア艦隊に向けて砲撃した
(画像:下)東鶏冠山北保塁 砲弾の跡が痛々しい