しのびよる破局

辺見庸さんの新著『しのびよる破局』は、現代人に重い課題を突き付ける。

われわれはいま、人間的な価値の問いなおしを迫られているのではないか。……もちろん今日食うに困る、寝るところもない人たちにとって、そんな悠長なことをいってはいられないというのはよくわかる。なくなった仕事を回復したい、失ったお金を回復したいと思うのは自然です。でも、それではまた元どおりではないでしょうか。しのびよる破局―生体の悲鳴が聞こえるか

辺見さんは「マチエール」の重要性を語る。

いまぼくは、マチエールということばを使いましたが、それは人でいえば、においとか温もりとか、冷淡さとか、あるいは抱きあったときの感触とか、つまり質感や手触りや痛覚のことです。そういう交換可能だったものがいま、交換不可能になっているのではないかと思うのです。……
夜半にずっと火焔樹を見ていると、肉厚な赤い花がポトッと落ちてきたりする。あるいは、突然スコールみたいな夕立がくると、火焔樹の花が落ちて、それが血溜まりのように路面を赤く染めていったりする。これこそがマチエールだと思う。もうわけもなく、涙が出てくるくらい感動するのです。

人は市民であるよりもただ市場活性化のために狂躁的に消費する。消費させられる奇怪な生命体に変えられていきました。モノにせよ金融にせよ人の生活のためにあるべきなのに、逆立ちして、人はただ市場のため資本のためにのみ生かされる存在にされた。

批判の矛先はメディアに向かう。

この国の権力者は、意味もなくよく笑います。なんで笑っていられるんだろうと思う。ぞっとする。傷んでいる社会にたいして、もっとそれ相応の表情があるのではないでしょうか。……それを支えるメディアがある。「一生懸命やっています。自分は漫画をよく読む。だからお前たちの気持ちはわかってんだぜ。」と、秋葉原みたいなところへ行って若い人たちに向かってえらそうに演説したりするのです。本当は愚弄されている。あるいは本人が愚弄しているという自覚もない。なんだこれは、と。よくこういうものにきみたちはたえているなあとおもう。「きみたちは」というのは、アキバの青年たちじゃない。メディアです。それを正当なものとしてあつかうことがよくできるなあとおもう。……
悪が悪として見えない、悪はおそらくもっとも善のかたちをとって立ちあらわれているのだと思う。とくにメディア。その集団性の中にぼくたちは隠れることができる。

そして、ひとりひとりが内にむけて問い直すことが必要ではないかと語る。

外にむけてどんどん広がっていく人間の野望というものを、もっと内側にむけていく。宇宙ではなく、「内宇宙」にむけていくような根源の倫理というものが、いま、問われているだろうと思うのです。……

いま求めているのは、少なくともぼく個人としては、なにかを取りもどすことではない。……かつてのメッキのような繁栄を回復することではない。これははっきりしている。少なくともぼくが見たいのは回復ではない。新たになにかがつくられるかです。

単なる回復ではなく、新たな何かを作り出すという課題は重い。