心を研ぐフロニーモスたち(イノベーションを導く人たち)

武田修三郎著の『心を研ぐフロニーモスたち』は、きっちりとまとまってはいないが、逆にそうした中途半端さやパッチワーク的なところがあるだけに、いろいろと刺激を与えてくれる書籍だ。何より現下の日本の、あまりにもひどい状況に対する筆者のいても立っても居られない気持ちのようなものが伝わってくる。心を研ぐ フロニーモスたち―イノベーションを導く人

私が本書のタイトルとして使った「フロニーモス」は、アリストテレスが使った言葉で、実用知(プラクティカル・ウイズダム)の実行者という意味であるが、もう一つ「イノベーションを導く人」、つまり本書での哲人という、より重要な意味を持つ。明確な目的、価値、意志を有すものをさし、この言葉はアクレイジア(=意志薄弱)の反対をさす。
私は、この数年間、どうしてある社会はある時代に偉大な飛躍期、つまりパラダイム・シフトを導くイノベーターとなり、短期にそれができなくなり、ラガード(落伍者)に成り下がるのかの理由を考察してきた。
難しく聞こえるが、ことは簡単で、動機は現下の日本の委縮にあった。

これが本書執筆の筆者のきっかけである。

かつて多くの人は、イノベーションを偉大な指導者や発明者に導かれ達成される特殊なできごとという見方をしていた。しかし彼らの見方は古いものとする。イノベーションは特殊なできごとではなく、人間が誰でも発揮できるもので、とくにフロニーモスにより、人はこの状態に導かれる。イノベーションは先天的なものではなく、後天的な教育で育まれる人間本来の才能となる。

古代ギリシャイノベーションの科学が誕生したと筆者は言う。タレス、ツキジデス、ヒポクラテスソクラテスプラトンアリストテレスギリシアの哲人たちがイノベーションの手法を確立した。
古代ギリシアにはソフィストと呼ばれる人たちが活躍した。ソフィストは知識教育を行い、それで金銭的報酬を得ていた。しかし筆者はソクラテスら上記の哲人は、そうしたソフィストとは一線を画しているという。知識教育ではなく、心を変える教育をおこなう者たちだという。
知識教育だけ受けた青年たちは、フロニーモスを育む「場」を破壊してしまう。金融技術を身につけたとされる一群が、世界経済におけるイノベーションの「場」を壊してしまった現代と照らし合わせてみると、今に通ずる考えだと思う。
I know what I do not know. この謙虚さがイノベーションを呼び込む。決して押しつけではなく、考え方を提示し、あとは弟子にその考えをふくらませてもらう。ギリシア哲学の対話法、これがイノベーションの原点だ。
ちなみに、日本の知識イノベーション論の第一人者である野中郁次郎一橋大学名誉教授もアリストテレスが提唱した「フロネシス(賢慮)」をキーワードに経営論のなかにギリシア哲学をうまく融合されている。イノベーションは現代のものだという奢りを捨て、いにしえの古代ギリシア時代に、その原型があったということを再認識しなければならないと思った。
(野中氏の論については、「フロネシスの知」『DIAMONDハーバードビジネスレビュー』2007年4月号などが参考になる)