蟹工船

駅前の行きつけの書店で気になる本があった。新潮文庫の『蟹工船』(小林多喜二著)である。あのプロレタリア文学小林多喜二か・・・。でも、今なぜ平積みで書店の店頭を飾っているのだろう。テレビドラマか映画で取り上げられて、そのキャンペンーなのだろうか、と思いつつ数日が過ぎた。目に留まったのは書店で平積みになっていたことだけではない。その表紙のインパクトの大きさからだ。蟹工船といういかにも、かつての左翼学生運動の立て看板を髣髴とさせる活字、そしてシルエットで描かれた工場の煙突やクレーン。中央にはソ連の国旗を思わせるマーク。あまりもベタな表紙。そのベタ過ぎるがゆえに、この本を読んでくれよと、訴えかけてくる。蟹工船・党生活者 (新潮文庫)
ネットでそれとなく検索してみると、どうも、蟹工船ブームらしい。ブームというほど大げさではないが、文庫が売れているようだ。それとともにカール・マルクス資本論も注目されているらしい。こうした世の中の動きは知らなかった。
そして、『蟹工船』の文庫版を購入して読んでみた。世の中では、格差社会が進む現代の日本の状況の中で、この本がワーキングプアと呼ばれる若い人に読まれているという。いくつかの新聞が火をつけたようだ。そういう面もあるだろう。『蟹工船』は漫画にもなっている。漫画化には適した小説だと思う。ドキュメンタリーとして見てもこの小説は当時の日本には衝撃であったのだろう。東北の寒村から、まじめな人々が集められ、日本国のためだといわれながら、北海道からカムチャッカの海を蟹工船が行く。その船での過酷な労働を強いられる人々がストライキを起こそうというドラマである。
まずは、単純なドラマとしてみることが大事。そしてこの小説の意味を何の制約もなく読み解くのが大事だと思う。純粋に、純粋に読むことが大事だと思う。なぜ、今、『蟹工船』なのか。それは、一人ひとりの読み手が解釈すればよいことだ。なぜ『蟹工船』なのかは、何となく雰囲気としてわかった。それはまだ明文化できていない。