〔書評〕運命と人力と(『努力論』より)

8月8日のエントリーで幸田露伴の『努力論』について触れた。早速秋の夜長に読み始めたが、なかなか歯ごたえがある。明治の人の文章だとしてもかなり難解な言葉が出てくる。しかし、その内容は簡潔かつストレートである。「運命と人力と」という章からスタートする。

世上の成功者は皆自己の意志や知慮や勤勉や仁徳の力によって自己の好結果を収め得たことを信じて居り、そして失敗者は皆自己の罪ではないが、運命の然らしめたがために失敗の苦境に陥ったことを嘆じて居る。・・・・・・成功者には自己の力が大に見え、失敗者には運命の力が大に見えるに相違ない。・・・・・・成功者は運命の側を忘れ、失敗者は個人の力の側を忘れ、各々一方に偏した観察をなして居るのである。

幸田露伴によれば、幸不幸はあらかじめ運命で定まっているとしてあきらめたり、また人を責め他を怨むようなことがあってはならない、自らの力で運命を切り開くことが重要だと言う。しかしその一方で、すべて自分の力によって成功したとうぬぼれることがあってはならぬとも釘を刺している。
続く「自己の革新」の章では、この運命を切り開くための自己革新について触れている。

自ら新たにするの第一の工夫は、新たにせねばならぬと信ずるところの旧いものを一刀の下に斬って捨てて、余孽(よげつ)を存せしめざることである。

余孽とは、「亡家の子孫の残れるもの」の意味で、今までもっていた思想や習慣、飲食の好みなど、悪いと思ったら根こそぎ捨てて、新たに良いと信ずるものを身につけることが大事だというのである。努力論 (岩波文庫)
露伴はけっこう過激なところがある。しかし、本当に自己の革新をしようと思ったら過去の悪弊は根こそぎ断ってしまうことが必要だろう。
「努力論」のこうした始めの部分を読んだところで、ふと思った。
小泉自民党と民営化法案反対派と民主党の戦いのことである。民営化法案反対派や民主党は、どうも人を責め他を怨むような雰囲気を醸し出している。かたや、小泉自民党は自己の力が大に見えて、運命の側を見失う危険性をはらんでいる。しかし、大改革のためには「亡家の子孫の残れるもの」を一掃しなければならない。
今の情勢では、本当に「自己革新」が必要なのは、対決の軸を鮮明に打ち出しえていない民主党なのかもしれない。