参議院選挙を終えて:思考停止からの脱却

参議院選挙を終えての感想を簡単にまとめておく。
選挙そのものということと同時に、その選挙に至る前の段階も踏まえての感想である。

すでに右か左か、保守かリベラルか、といったステレオタイプ的な分類が意味をなさない時代に入っている中で、今回の参議院選挙ではその戦後日本の悪しき亡霊がよみがえったように両派に分かれて非難合戦に陥っていた。ネット上において言うならば、下品なタイプ分けでいえば「ネトウヨ」VS「パヨク」といったところであろうか。

お互いに、自らの陣営が絶対と考え、見たくない現実には目をつぶり、ひたすら批判を繰り返す。完全な思考停止である。
フェイスブックツイッター、ブログといったネット上の言論について
「シェアします」という行動がとられているが、そのほとんどは、他者の意見を紹介して終わりである。そのほとんどは、自己の主張を自らの言葉で語っていない。

他者の意見を引用するのは良い。しかし、引用したうえで自らはどう思うのかを語らない。自らの考えに自信がないから、他者の意見に依存する姿勢が透けて見える。

私は、以前から有名人至上主義、専門家至上主義ということに反発してきた。
ビジネス分野で活動してきたので、たとえば企業における新規事業開発において、「有名な学者やメディアがこのビジネス領域は有望だといっています。ですから自社でもこの分野に取り組みましょう」「競合他社が取り組んでいるから、自社でも取り組みましょう」「自社で取り組むとしたら専門家のこの企業、この人に任せましょう」……。
有名人、専門家の意見を取り入れるのは良い。しかし、ただ鵜呑みにするのではなく、そのうえで自らの主体性を発揮して、自らがリーダーシップをもって、自らの頭で考え、自らリスクを負って事業創造していかなければ、成功はおぼつかない。

昨年来の安保法制論議参議院選挙に至るプロセスでも、この思考停止の行動が見られたと思う。ネット上に繰り広げられる言説も、その多くは、「こんな有名人が支持している」といった紹介が目についた。
マーケティングの世界で古典的な原則に4Pがある。プロダクト、プライス、プレイス、プロモーションである。プロモーションには広告宣伝が含まれる。マーケティングの教科書では売上を上げるために広告宣伝をせよと書かれている。しかし、広告宣伝はその影響力があるだけに、プラスの方向に働くだけでなく、マイナスの方向に働くということをほとんどの企業も組織も個人も見落としている。

宣伝すれば宣伝するほど、その商品やサービスや企業の信用を貶めてしまう危険があるということである。

選挙活動というのもマーケティングの一領域である。まずは良い商品であること。良い候補者と良い政策があること、それが前提である。そのうえで、その候補者や政策を、より多くの人々に伝えるという努力が必要となる。消費者やユーザーはそのメッセージを受け取り、その商品を購入するかどうか、すなわち候補者を選択するかどうかを決める。

毎日、郵便受けに放り込まれるチラシ、路上で配られるチラシ、そのチラシにも
100枚に1件は、価値あるものが含まれるが、そのほとんどはゴミ箱行きである。プロモーションをすればするほど、その商品のいかがわしさを感じるというユーザー心理を供給側は理解していない。

しかし、今回の参議院選挙の活動と結果を見ていくと、マスコミ報道などに影響されず、みずからネット上で、候補者情報を探索し、また街頭演説に足を運び、ネット上での街頭演説動画を見て、そのうえで自らの考えをめぐらして投票したと思われる動きを感じ取ることができた。

数年前から、マスメディアよりもインターネット情報を重視する傾向がみられるということは言われてきたが、そのインターネット情報も、表面的で軽薄な情報を受け入れるのではなく、自らの主体的な意思で情報収集を行っていく国民の姿の胎動を感じることができた。

選挙前と選挙後で、自らが成長したと感じた人、あいかわらずステレオタイプのままでとどまっている人、それはネット上の言説のなかで一瞬にして選別されていまう。どんなに有名な論客と言われる評論家や学者でもこのネット上で厳しい名もない庶民の目にさらされているということを痛感したのではないか。それを感じることがないのであれば、もはやその生存価値はないといってよい。