1755年のリスボン大地震から麗しのリスボンへ

15〜17世紀の大航海時代に、ポルトガルはスペインと世界を二分した海洋国家であり、当時から日本とのつながりは深い。その後、イギリスなどの国々が台頭する中でポルトガルの力は衰えを見せ始める。そうした状況の1755年11月1日、ヨーロッパ最大の自然災害といわれるリスボン大震災が起こった。
マグニチュード8.5〜9.0と推定される大地震と、テージョ川をさかのぼって来た津波により、リスボン市内の85%の建物が崩壊し、街は一挙に廃墟と化した。しかし、有能なる宰相セバンスティアン・デ・カルバーリョ(後のポンバル侯爵)の復興政策により、1年を待たずに瓦礫は消え、建築ラッシュとなり、大規模な広場と、碁盤状の道路と町並みが整備されていった。この復興で出来上がった美しい街が、今日のリスボンの観光都市としての魅力を高めている。
ポルトガルは厳しい財政危機にある。ポンバルが再建したバイシャ地区(下町地区)やバイロ・アルトの丘を歩くと、この経済危機を忘れさせてしまうほどの賑いである。しかし良く考えてみれば、力のある産業は過去の遺産ともいえる町並みを武器にした観光産業とオリーブ栽培などの農業と食品産業しかないのが弱みである。ギリシャ、イタリア、スペインもいずれも観光大国でありながら財政危機に陥っているという点では共通の特徴を持っている。
ポンバルの復興までは良かったが、その後が続かなかった。しかし、今日の東北大震災後の日本では、このポンバルに匹敵するリーダーすら現れていない。日本では、ものづくり、街づくり、人づくり、国づくりという創造する力が弱まってしまったのはなぜだろうか。日本がポルトガルのように世界の中心から外れて行った同じ歴史をたどらないことを願いたい。
(画像)エドアルド7世公園からポンバル伯爵の像がそびえ、遠くテージョ川を望む。遠く右側に見えるのが有名なサンタ・ジェスタのエレベーター