プリンシプルのない日本

ワールドカップでの日本の敗戦ということもあり、にわかサッカー評論がメディアやネットであふれ出すだろう。その論議の中心は、監督論になりそうだ。管理中心のトルシエ型と選手の自律を促すジーコ型の比較などは、面白いといえば面白い。また、太平洋戦争での日本軍になぞらえて、最初は優位に立つが、体力のなさと戦略のなさから、その優位を保つことが出来ず、最後は一方的に攻撃されてしまいお手上げ状態になって茫然自失という議論もなるほどと思う。
私などは、昨日のブラジル戦の後、あるところでWeb2.0について話をしなければならなかったので、中央集権型の社会から自律分散型のネット社会への転換過程を日本のサッカーと比較しながら考えたりして、力のある「個」が活躍する社会への生みの苦しみを、今日本チームはしているのかなと思ったりもした。プリンシプルのない日本 (新潮文庫)
最近話題の白洲次郎著『プリンシプルのない日本』を読んだ。
そういえば、サッカーの日本チームにも「プリンシプル」が感じられないのは私だけだろうか。プリンシプルがなければ国際社会の中での外交においても成功はありえない、と白洲氏はいう。
サッカー日本チームは、これから根本的な建て直しをすることになるだろう。日本のサッカーは何を目指すのかというプリンシプルを持つことが大事だと思う。そのプリンシプルにもとづいて代表監督を選んでほしい。お任せや対処療法ではだめだ。
しかし、この白洲氏の著作は昭和20年代から30年代に文芸春秋などの雑誌に書かれたものだが、日銀総裁論や役所の役割、憲法と軍備の問題など、これは21世紀の現代に書かれたものかと、錯覚してしまう。さすが話題になるだけの本だ。