『生命(いのち)のバカ力(ぢから)』

世の中を分類する基準に「技術と文化」というものがあると思う。人を見るときも理系か文系かという尺度でみることもある。どちらかをはっきりと区分すべきだ、自らの専門分野を明確にすべきだ、という考え方がある一方で、両方を併せ持つのが良いのだという考え方もある。
「生命のバカ力」(講談社+α新書)の著者である村上和雄氏(筑波大学名誉教授)はバイオの分野の研究者で理系の人である。その村上氏が、「心と遺伝子研究会」であの吉本興業と共同研究で、笑いが糖尿病患者さんの食後血糖値の上昇を抑えることを発見した。その成果はアメリカの糖尿病学会誌にも掲載された。
笑いを医療の分野に取り入れることの重要性を主張されている。心の持ち方によって、眠っている遺伝子を目覚めさせることができるならば、将来の教育や生き方に新たな視点を導入することができるという。
その考え方を知って、一瞬、「笑いの科学か」面白いなーと思った。
でも、冷静になって考えてみると、笑いを科学や医療の対象にするということは、いかにも技術家さんの考えることかなと思った。漫才や落語の笑いは純粋に楽しみたいと思う。それが健康のために、体のために良いのだ、と言われると、「そんなことは言われなくても分っているよ」と、ついつい反発してしまう。
最近はセラピーばやりの感がある。何でも○○セラピーとつけると何か科学性が付与されたように思えてしまう。アートセラピーカラーセラピー、アニマルセラピー、ホルトセラピー、ミュージックセラピーなど無限に広がっていくようだ。こんな調子だと世の中のことすべてがセラピーになってしまうかのようだ。アートにしろ音楽にしろ、もともと意味があることだから文化として根付いて来たのであって、セラピーという名前がつけられた瞬間に、そのテーマの文化性が損なわれてしまうような感じがする。
物事には二つの面があって、科学的に解明することの大事さと、純粋にそのことを楽しんだりすることがあると思う。楽しむことができるということは、あえてデータによる科学的解明がなされていなくても、人間にとって大事なことなのだというような気がする。
大げさに言うならば、その両者のお互いのやり取りが歴史を築いていくのだと思った。