[書評]どくとるマンボウ航海記

北杜夫さんが亡くなった。代表的な「どくとるマンボウ」のシリーズを青春期に読んだ人が多い。とくに「どくとるマンボウ航海記」は、漁業調査船に船医として乗り込んだ主人公が世界の各地で経験した何げなくも面白い話が満載で、世界への憧れを誘う物語である。
何十年振りかで、ページをめくってみるとポルトガルリスボンに上陸した際の話がつづられている。どくとるマンボウ航海記 (新潮文庫)

リスボンは新旧混合した実におもむきのある色彩豊かな街である。街には急坂が多く、ずいぶんと狭いところまで古びた市電が通っているが、とくに急勾配の坂はケーブルカー式になっている。そして、どの道にもさまざまな石が敷きつめられている。

ジェロニモス大寺院はヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見を記念して十六世紀のはじめマヌエル一世が起工し、長年月をへて完成したルネッサンスを加味した壮麗なゴシック建築である。…
その薄ぐらく森閑とした内部に足をふみいれ、ステンドグラスからしのびこむ厚ぼったい光やローソクのゆらめきを見、ひいやりと淀んだ空気を肌で感ずると、私のようにかような場所に無縁の者の胸にもいくつかの観念がうかんでくる。まず厖大にくみあわされた石材の圧迫を感ずる。こうした岩石のもつ永続性、その硬い冷酷さと執念は我々と無縁なものだ。こんなものを建てるから悪魔もまたここに住みつくのではないか。日本の木造建築では悪魔はリュウマチになるので逃げだしてしまうが、しかし彼の住みつかぬことは我々の不幸でもある。

この観念に同感。
北さんの「あとがき」の一言。

私はこの本の中で、大切なこと、カンジンなことはすべて省略し、くだらぬこと、取るに足らぬこと、書いても書かなくても変わりはないが書かない方がいくらかマシなことだけを書くことにした。

と語っている。このくだらぬこと、取るに足らぬことこそが人生の面白さであり、筋書きのない大きなドラマは、このささいなことから始まるといってよい。
見知らぬ土地に出かけていって、数々の偶然に出会っていきたいとあらためてこの本を読んで思い至った。。
(画像)リスボンの市電(ガレッタ通りからカモンイス広場に向かう付近を走る)