「オレは進歩と調和なんて大嫌いだ」(岡本太郎)

2025年の大阪万博開催が決まった。ある年齢以上の人にとって思い出すのは1970年の大阪万博であり、そのシンボルであった太陽の塔だろう。
芸術は爆発だ!(岡本太郎痛快語録)』岡本敏子編著、小学館文庫、1999年刊は、岡本太郎の秘書・養女として50年間、一挙一動を見守ってきた岡本敏子が編集した岡本太郎伝である。
岡本太郎の「太陽の塔」にかける想いが同書の冒頭で語られている。

1970年のこと。
大阪で万博が開かれた。この万博は国家的な大プロジェクトとして開催され、約6400万人もの入場者を記録した。岡本太郎はテーマ・プロデユーサーを引き受けて、そのメインゲートにどかーん馬鹿みたいに大きい彫刻を打ち立てた。
太陽の塔」である。
……
当時、日本は学生運動がもっともさかんな時期だった。前年の69年には東大の安田講堂で機動隊と全共闘の学生が激突するという事件が起きている時代だ。日本中に「反体制」の嵐が吹き荒れていた。
万博は国をあげての大イベントである。当然、反体制の側にとっては絶好の標的であった。万博に参加する芸術家なんていうのは「体制側の手先」。万博に参加していない芸術家や学生たちは「ハンパク(反博)」の旗を掲げ、いろんなところで万博の反対集会を開いた。
……
当然、岡本太郎のところにも、非難の声や、嫌がらせの電話などが相次いだし、今まで前衛の代表者、革新的な世代のリーダーとして尊敬し、慕い寄ってきた人たちまでも、白い眼を向けるような雰囲気だった。
しかし、太郎は全然動じる様子がなかった。……
「何いってんだい。一番のハンパクは太陽の塔だよ。」
万博のテーマは「人類の進歩と調和」である。会場はモダニズム一辺倒。……未来志向の建物やテクノロジーで埋め尽くされていた。その真ん中に、どーんと馬鹿みたいに巨大な棟を打ち立てたのだ。……その馬鹿みたいな塔がすべての未来志向の建物と拮抗しているのだ。
太郎はこう言っていた。
「オレは進歩と調和なんて大嫌いだ。人類が進歩なんてしているか。」
「調和? お互いに頭を下げあって、相手も六割、こっちも六割、それで馴れ合っている。そんなものは調和じゃない。ポンポンとぶつかり合わなければならない。その結果、成り立つものが調和だ。」
太陽の塔の制作にとりかかる前、万博のシンボルゾーンの大屋根は丹下健三さんがすでに三十メートルという高さで設計していた。そこへ、岡本太郎が乗り込んできて、「太陽の塔の高さは七十メートルだ。ぐんと、ぶつかるんだ。」と、その大屋根に穴を開けろと言い出した。
当然、建築家たちは頭にきて、かんかんになって怒りだす。……
ところが、岡本太郎と喧々囂々とやりあっているうちに、建築家たちは説得力と情熱に圧倒されて、みんなだんだんと嬉しそうな顔になってくる。
結局、大屋根に穴を開けて、太陽の塔が突き抜けるということに同意してしまったのである。
これが岡本太郎の「調和」のやりかたなのだ。

2025年の大阪万博。テーマは「いのち輝く社会の未来デザイン」だ。
そのテーマを突き抜けるような芸術家が登場するだろうか。
現れなければ、岡本太郎が天国から
「オレが言ったとおり、人類に進歩などない、だろう。わかったか。」
と言われてしまうだろう。
(引用)
www.amazon.co.jp/dp/4094036717/

現場力と想像力

2019年(平成27年)大晦日。いつも年の変わりにギリギリに書いていた年賀状はすでに昨日投函し、大掃除ならぬ中掃除も終わり、ほっと一息の大晦日。テレビのNHK・BSでは、黒澤明特集を放映しており、「七人の侍」を観た。何度見ても新しい発見がある名作である。
いくつかのセリフをノートにメモした。
「おぬしの人柄に惚れて、ついていく」
「カネにも出世にもならん「いくさ」だ。今度こそ死ぬかもしれんぞ」
「自分をたたき上げる、それに凝り固まった男だ」
「敵が怖い? しかしな、向こうだってこっちが怖い」
「戦うとき、旗が必要だ」
「もう、大丈夫だというときが一番危ない。みんなに持ち場へ戻れと言っておけ」
本業のかたわらで、二つの大学で非常勤講師をしている。ある大学では「経営戦略論」を教えている。先日の今年最後の講義では「アレキサンダー大王」をとりあげた。経営戦略は、もとをたどれば軍事戦略がベースになっている。経営戦略も軍事戦略も数多くのケーススタディから理論化がなされている。軍事戦略の基本をたどると、東洋では「孫子」、西洋では「アレキサンダー大王」に行きつく。
数多くのヒット作を生み出し、日本のトップ層にもファンの多い歴史作家の塩野七生さんが、著作の最後に選んだのがアレキサンダー大王であった。最新作「ギリシア人の物語?」が、つい最近発刊されている。
日本経済新聞の12月26日の「時論:Opinion」で、塩野さんへのインタビュー記事が一面を使ってとりあげられている。
塩野さんの次の発言にハッとさせられた。
「総司令官が一介の兵士たちのことを一番分かるのは経験したからではない。彼らには想像力がある。経験しないと分からない人は想像力がない。よく下積みをやらなければ下積みの気持ちは分からないと言う。それはトップクラスにはあてはならない。」
「戦後復興に携わった下河辺淳さんが国土事務次官を辞める時、松下電器産業松下幸之助さんに「ぜひウチに来てくれ」と言われた。でもその時に「工場からやってくれ」と条件を出されたからやめた方がいいと考えたといいます。」
「松下さんも下積みをやらないと下積みのことは分からないという考えがあったのではないか。下河辺さんに言わせれば「それくらいの想像力がなくて国土計画なんてやっちゃいられない」と」
今年は、想像力の欠如が目立った年であったように思う。
揚げ足取りに終始した日本の政治状況。本来、想像力を発揮すべきマスメディアがその力を失い、ある新聞などは言論の力を放棄して、一人の作家を名誉棄損で損害賠償を求めるという異常さ。世界に目を向ければ、米国におけるポリティカル・コレクトネスの行き過ぎによる、息苦しい社会の出現など。
凝り固まった思想や考え方が、「想像」力を発揮する人材の「創造」の芽を摘むことがあってはならない。
七人の侍志村喬が演じた島田勘兵衛のリーダーシップ、元・国土庁次官下河辺淳の想像力、アレキサンダー大王のリーダーシップと想像力に学ぶべきと、大晦日の日に強く思った。

現場力 : 高橋亀吉と大野耐一

高橋亀吉
 東洋経済新報社が発行している『統計月報』で、2000年に「20世紀の日本を代表するエコノミスト」をアンケート調査したとき、高橋亀吉は下村治、石橋湛山ら名だたるエコノミストを押さえて、堂々の1位に輝いた
・1891年 明治24年 山口県徳山村の船大工の長男として出生
・1977年 昭和52年(86歳) 死去

1975年に現役大学生に寄せたメッセージが残っている。

……
「現代経済学を学んでいる学生諸君に何か一言をという編集者のご依頼に答えて、私の長い経験からにじみ出た2、3の点を誌して責めをふさぎたい。
 ◎第一は、経済理論は当時の経済基盤の上に築かれたものである。したがって、その経済基盤が変化すれば、経済理論も変化するものであって、永久不変の原理ではない。
 ◎第二は、経済の純理論の少なからぬものは、世界経済が一体的に運営されていることを大前提にしている。しかし、実際は各国は国民経済的運営をしている。
 ◎第三は、経済の働き方、この面における経済理論は、国によって少なからず違う。」
 経済動向を考察する場合、大切なことは、外に現れた現象は同一であっても、その性格なり、意味なりは必ずしも同一ではない。ところが、最近のコンピュータ的経済観察は、現象が同じならば、これをすべて同一意味のものとみなす、という重大な誤りに陥りがちなのである。
 たとえば、物価騰貴という問題がある。世界恐慌以降の40年間においては(戦時経済を除き)、物価騰貴とは需要が急激に増えたことによってもたらされた現象とみて良かった。それは当然、景気がいいということを、つまりは企業は繁栄して利潤が増加するとされてきた。
 ところが、昭和48年以降の物価騰貴はどうか。従来のように需要が増えたから起こったものではない。原産品の供給が世界的に減った(一時的でなく少なくとも中期的、構造的に)から起こったのである。
 既存の理論をいかに知っていても役に立たない。かえって理論を知っていればいるだけ、昔のパターンにとらわれがちになるから誤診しやすいのである。
 『高橋亀吉・私の実践経済学』東洋経済新報社(1976年刊)の「第1講」より。
……

 大正10年、私は、若年ではじめて海外視察の度に発ち、アメリカからイギリスに行った。当時、経済の分野ではイギリスが最も進んでいると考えられており、イギリスの経済理論が世界を風靡していたころである。
 アメリカで、ある日あるデパートに行ってみた。すると、一つの階全体が台所用品や家具でいっぱいに陳列されていた。ところが、イギリスに渡ってロンドンのデパートに行ってみると、そうした台所用品の売場はなかった。
 私はその違いに強く打たれた。アメリカは人手が少ないから給料が高く、各家庭で雇人を使えない。主婦だけの労働で済むようにきわめて合理化された台所用品が売れる仕組みがあった。
 ところが、イギリスは当時人手は豊富で人件費も安かった。台所をそれほど合理化する必要がなかった。日本でもお手伝いさんを使っている家庭の台所は、合理化が遅れている。イギリスがそれと同じであった。
 事実をみて、これは何だと考え抜き、理論にまで仕上げることが大切なのだ。
 『高橋亀吉・私の実践経済学』東洋経済新報社(1976年刊)の「第2講」より。
……

大野耐一
元・トヨタ副社長大野耐一のは「なぜ」を五回繰り返すことによって対策を発見できる、とした。これは、高橋亀吉の現場思想に通ずるものである。
?なぜ機械は止まったか?
 ⇒オーバーロードがかかってヒューズが切れたから
?なぜオーバーロードがかかったのか?
 ⇒軸受部の潤滑が十分でないから。
?なぜ十分に潤滑しないのか?
 ⇒潤滑ポンプが十分くみ上げていない。
?なぜ十分くみ上げないのか?
 ⇒ポンプの軸が摩耗してガタガタになっている。
?なぜ摩耗したのか?
 ⇒ストレーナー濾過器)がついていないので切粉が入ったから。
ストレーナーを取り付けるという対策。
 (DIAMONDハーバードビジネスレビュー2010年1月号より) 

現場からの発想、その現場を大事にする経営者の意識が、日本経済を支えてきた。これが日本的経営の神髄であり、世界に発信すべきことであるのではないかと考える。

10月22日投票の総選挙

10月22日投票の総選挙の喧騒の中で繰り広げられる人間模様から感じたこと。
菜根譚」の名言と関連付けて。
●偏りを戒める
理想は高く持とう。しかし現実を無視するな。
思考は綿密にしよう。しかし些末なことにこだわるな。
●理想の味わい
潔癖ではあるが、包容力がある。
人情がこまやかだが、決断力がある。
聡明ではあるが、あらさがしはしない。
一本気ではあるが、無鉄砲ではない。
●貧しさのなかの気品
あばら屋の庭も掃き清められ、
貧しい娘も髪をきちんととかしていれば、
つつましいうちに趣があるものだ。
人として、たとえ恵まれぬときがあろうとも、
ヤケを起こして自堕落になりたくはないものだ。
●日頃の心がけ
ひまだからといって、無駄に日を送ることがなければ、
その効用は忙しいときに現れてくる。
人目の届かぬところで良心を偽らなければ、
その効用は公の場に現れてくる。
●心の迷いを見のがすな
自分の気持ちが私利私欲に動かされそうだと
気づいたならば、すぐにそれを反省して、
正しい道に引きもどそう。
そのことが、禍を福に、死を生に転化させるカギである。
決してこれを軽く見て放置してはならない。
(参考資料)『菜根譚』(現代人の古典シリーズ)洪自誠(著)、神子侃吉田豊(訳)
徳間書店 1965年を参考に一部、筆者意訳。

鉄腕アトム

先日の投稿で、米国大統領選の各候補のキャンペーンソングの話題について紹介した。
歴史に残る映画には、スクリーンミュージックの名曲がついている。
テレビ番組も、人気番組は必ずテーマ曲も名曲である。
日本の国産テレビアニメの走りとなった「鉄腕アトム」。
昭和38年から41年までフジテレビで放映された。
この鉄腕アトムの主題歌は、ある年齢以上の日本人の誰でも知っている。
https://www.youtube.com/watch?v=KGq6z1mEU9Q
https://www.youtube.com/watch?v=SSbaZuTW1Q0 歌詞付き
https://www.youtube.com/watch?v=gJMnNScrnTw 第一話英語字幕付き

この軽快なテンポの曲。
作曲は益田克幸さんという。
この益田さんは、私の母校の高校の先輩である。
益田さんは、母校の応援歌の一つである「冠たる伝統」(昭和22年作)という母校卒業生にはなじみのある曲の作曲をされている。三井物産創始者である益田孝氏のご子孫でもある。

世界に誇る日本のアニメ文化の祖とも言うべき手塚治虫作の鉄腕アトム
そのテレビ放送の第一話は、アトムの誕生について描いている。
小さな子供が自動車の運転をしている。今日話題の自動運転を予言している。
救急車による交通事故の担架救助は人間でなくロボットが行っている。今話題の介護ロボットを予言している。

アトムの能力(七つの威力)は、
1.どんな計算も1秒でできる電子頭脳。
2.60か国語を話せる人工声帯。
3.普通の1000倍も聞こえる聴力。2000万ヘルツの超音波を聞き取ることも出来る。
4.サーチライトの目。
5.10万馬力の原子力モーター。
・・・・・・
そこには、人工知能やコンピュータ、原子力の能力が詰まっている。

まもなく、スウェーデンノーベル賞授賞式が行われる。
ここ数年、日本の科学者が授賞を重ねている。
この日本の科学者たちも鉄腕アトムを子供の頃見て科学者を目指したのだろう。

鉄腕アトムの主題歌は学生野球の応援歌にも受け継がれている。
アニメの一作が、日本を世界を変えていく。
これから子供たちは何を見て未来を築いていくのだろうか。

六大学野球応援歌> 
東京大学 チャンス応援歌  ビクトリーマーチ
https://www.youtube.com/watch?v=SDOjx6sOX7E
立教大学 立教アトム
https://www.youtube.com/watch?v=74O5y325By8

足元の宇宙

雪の日の昨日、書店で本を探していたら、後ろのほうからお客さんと書店員の声が聞こえてきた。
お客さん「雑草についての絵本のような本、ありますか?」
書店員 「書籍名や著者名わかりますか?」
お客さん「この人の本です。」
書店員 「ずいぶん古い本ですね。少々お待ちください。調べてまいります。」
やがて、中年の男性らしいお客さんは、携帯電話で、どうやら奥様らしい方とその本について話し始めた。
やがて、書店員が戻ってきた。
「すみません。在庫がございません。ご注文いただくことは可能ですが、2週間ほどかかります。」
お客さん「そうですか。ありがとうございました。他を探してみます。」

時々、amazonの販売ランキングを見ている。
世の中の動きを知る一つの指標になるからだ。
最近では、すべての書籍の総合順位の上位に来ているのは、やせるための食事とか、レンジでチンできるおかずとか家庭料理に関するものが多い。驚いたのは、その下あたりに、あの雑草についての絵本が数点、並んでいるのである。
著者は甲斐伸枝とある。
「ざっそう」「雑草のくらし」「たねがとぶ」「稲と日本人」・・・などの数々の絵本の著者である。
いずれも1980年代に発刊された古い本だ。書店に在庫がないのも当然だ。
しかし、なぜamazonランキングの上位に来ているのだろうか。amazonの個別の本で調べてみると、
いずれも在庫がない状態になっている。入荷待ち状態だ。書評のコメントをみても最近のものはない。
なぜか疑問がわいてきたので検索で調べてみた。
そうか、NHKのテレビで23日の休日の夜に
「足元の小宇宙:“雑草“が教えてくれたすてきな世界」
という番組を放映したのが原因だ。
http://www.nhk.or.jp/docud…/program/3035/2345010/index.html…

雑草だらけの荒れ果てた田畑も85歳の現役絵本作家の甲斐さんにとっては自然の不思議や美しさに出会える貴重な場所といえる。
農作物にとってはやっかいな雑草でお、一つ一つに名前があり、命の輝きがある。
雑草の荒れ地にうつぶせになって、同じ目線で草花を見つめる甲斐さんの視線の先に映るものは・・・。

多くの工業製品に囲まれ、作られた映像や情報を消費する現代人。
しかし、ふと足元をみれば、そこに小宇宙ともいえる神秘な世界が広がっている。
われわれは、その植物や昆虫について何も知識を持ち合わせていないことを悟るのである。

昨日の本FBエントリーで触れたように人間もビジネスも社会も螺旋階段を上るように成長していくはずなのだが、多くの現代人、多くの大人たちは直線的に成長するものと思い込んでいたのかもしれない。
そうではないことを85歳の甲斐さんや、純粋な子供たちから教わらなければならない。
草花にも神は宿るという日本の古神道の伝統を思い出したりもする。
先日紹介した竹内睦泰さんの著書「古事記の宇宙」。甲斐伸枝さんの「足元の宇宙」。
直線から螺旋へのシフトが日本でも世界でも起きつつあること実感する。

フィンテック

首都圏地域は雪になるかもという天気予報となっている。
わが国では四季があり、春夏秋冬と季節がうつろいながら、また新しい年を迎えていく。
銀杏並木の落ち葉が鮮やかな秋から冬の季節。しかし今年の秋から冬は、昨年の同じ季節とは異なる。
一年一年新たなに年を刻んでいく。
ビジネスや政治の世界も、あたかも螺旋状に発展をしていく。
最近話題のフィンテック
金融と技術を組み合わせた造語である。
今、既存の金融業が分解をしアンバンドリング(分解)によりフィンテクベンチャーが生まれている。
今後は、この振り子がまた揺り戻し、リバンドリング(結合)により新たな金融メガ企業の登場も予測される。
コンピュータの世界も集中と分散の歴史をたどってきた。
メインフレームからクライアントサーバへ、そしてクラウドサービスへ。
アマゾンは集中化が進行中だが、一方でUberなどのシェアリング・分散化の動きもみられる。
今後はAI(人工知能)の進化の影響があらゆる産業に及ぶことだろう。
螺旋状の動きというのは、二つの動きに分解される。
・右から左へ、そしてまた右へという左右の動き
・下から上への上昇の動きである。
螺旋階段の動きは上から見れば同じところをぐるぐる回っているように見えても、
横から見れば右へ左へと移動しつつ、上へ上へと昇っていく。
フィンテックやコンピュータの世界だけでなく身近な生活の場面でも螺旋状の動きが
知らず知らずのうちに起こっている。
クールジャパン。日本を見直そうという動きもその一つである。
ひたすら西洋を見習うところから、あらためて日本の良き伝統に注目しようという動きである。
政治の世界でも保守からリベラルへ、そしてまた保守へと移っていく。
ヘーゲルの言う「弁証法」の世界が生きている。
過去のものが復活するのであるが、その復活の際は必ず新たな「価値」が付与されている。
こうした螺旋活動を予測するには、
「新しいもの」を「古い眼鏡」で観るのではなく、
「新しいもの」を「新しい眼鏡」で、
「古いもの」を「新しい眼鏡」で
観るようにすべきであろう。